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感謝のプログラミング 10000時間

たどり着いた結果(さき)は、感謝でした。

坂本龍馬『俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。』

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司馬遼太郎著「竜馬がゆく」にこんな記述がある。

竜馬は議論しない。
議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。

もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。

通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、
負けたあと持つのは負けた恨みだけである。

『竜馬がゆく』は学生の頃に何度か読み返し、その度心を打たれた。
研究室の周りは議論好きな人が多かったんだけど、そういう議論を見るたび、『竜馬がゆく』にあるこの文章を思い出した。

ネットで誰かを論破しても1円も得しない。

はてなブログなどは特に、ブロガー同士の議論が盛んで、今日もなお、活発にユーザ間での意見が交わされている。
はてなブログ内にとどまらず、ツイッター上でもかなり議論になっている様子が散見される。

ツイッター上の議論を目を細めて観察すると、けっこうな泥仕合に発展しているように見える。
内容を詳しくは追っていないから、観察した議論の詳細について触れられるわけではないけれど、
お互いがお互いを罵り合い、憎しみ合っているようにも見えた。

一部の方は睡眠時間を削ってまで議論しているみたいだった。

もちろん時間の使い方、ネットの使い方は本人の自由だ。
価値観や、本人が譲れないものも、人それぞれで、それについて、一切口出しすることなどできない。

ただ、それでも、ネットの議論(もとい、罵り合い)を見ていて個人的に思うのは、

それに勝ったところで、何も得しないんじゃないだろうか?

ということだ。

ネットの議論に時間をかけてしまうのなら、その時間は損だ。
議論しているときにイライラしてしまうなら、それも損だろう。

議論から得られるものがある、なんてこともあるかもしれないが、
会ったこともない人とネットで議論(もとい、揚げ足の取り合い)したところで、
かけた時間に見合う気付きが得られるようには思えない。

その時間を別のこと(たとえば勉強など)に費やした方が、得るものが大きいので、機会コストという意味でも損している。

つまり、ネットで議論しても1円も得しないのだ。

そうやって損得で考えていくと結局、
ネット上の議論は「基本的にはスルーする」ということが合理的に考えうる最適戦略となる。

唯一の例外は、自分より有名な人と議論する場合だろう。

例えば昔、イケダハヤトさんが、(おそらく知名度が上である)やまもといちろうさんに絡まれたけれど、
この議論を受けて立ったイケダハヤトさんは、とても合理的な判断をしたと思う。

そこで論理的に正しい主張ができれば、「ネット上の個人の評価」が上がり、明らかに得になるからだ。


こんな風に損得で物事考えるのは「汚い」と言われがちだけど、損得を計算しないと、合理的に行動の取捨選択ができない。

人生には時に、譲れないプライドのために、強敵と闘わなければならない場面もあるかもしれない。
でも、少なくともネット上の議論は、その場面ではないと僕は思う。


ちなみに、日本人の「損得が汚い」という考え方は江戸時代に定着したようだ。
江戸時代の武士は貧乏で、商人は金持ちだったんだけど、そんな中でも武士の反抗心を抑えるために、武士が一番偉い「士農工商」という身分を敷いた。

そして「武士は食わねど高楊枝」みたいな、貧乏でも気位の高い態度が尊いという価値観が植え付けられたらしい。

まぁ、それはそれで立派だと思うけど、今はもう平成だし、もっと損得で考えてもいいんじゃないかな(笑)


個人的な考えだけど、坂本龍馬は物事を損得で考える男であったと思っている。
彼は武士でありながら、根っこの部分では商人だった。

そういう意味で、龍馬は気質からして異端児だったといえる。

商人的な考え方ゆえに、行動は非常に理(利)にかなったもので、合理的な道を選んでいた。
幕末一のビジネスマンであったと言ってもいい。

そんな彼の思想から考えると、議論というものに価値が見いだせなかったことも納得できる。
結局、議論に勝っても恨みを買うだけだし、誰かを変えられるわけではない。

誰も得しない。

それなら、相手を味方に付けたほうがよっぽど得だ、と考えたんじゃないかな。

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