感謝のプログラミング 10000時間

たどり着いた結果(さき)は、感謝でした。

イケダハヤトさんが社会を恨んで、世の中に逆張りしたくなる気持ちがわかる。

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イケダハヤトさんのオワコン化について。

「あざなえるなわのごとし」さんの記事を読んで、イケダハヤトさんを思い出した。
炎上常連のオワコン化について考える

この記事では、なぜイケダハヤトさんが以前のように炎上しなくなったのか、はてなでもいじる人がいなくなったのかが書かれている。
消費し尽くされてしまったイケダハヤトさんのオワコン化について、炎上に慣れた周囲の冷めた目線と、その背景を丁寧に、読みやすく書いてくれる。

イケダさんの論理はたしかに飛躍している部分も多く、世論に逆張りの極論が多い。
読んでいて納得できる部分は少なく、「プロ」なのに主張の裏付けはまるでないことも多々ある。
もはや、何がプロで何がアマチュアなのかは関係ないのかもしれない。
それで生きていけるなら。

なんでそんなに怒っているのか。

今日、会社でしょうもない資料を作らされている後輩を見て、嫌な気分になった。

「このSIerに染まった風習がダメなんだよ。1にも資料、2にも資料。3、4がなくて、また資料。
無駄な資料ばっかり作って、本当に意味ねぇな」

と。

他にも、埋まりきった会議室の予約や、一日中打ち合わせばっかりしている社員を見て、

「こういうとこSIっぽいんだよな。ほんとダメだな」

なんて考えた。

その後に、ふっとこんな考えが頭をよぎった。


「なぜ、俺は『SIっぽいもの』をこんなに嫌悪しているんだろう」

SIerの人間なのに。
"今"の環境は嫌いではないはずなのに。
どうしても"SIerっぽい行動"に対して、不快感を抱いてしまう。
そこに論理は無かった。
他人が会議に出ても、自分が不快になる意味は無い。
無駄だなぁと思っても、嫌な気持ちになる必要はないはずだ。
意味のない国会答弁を見るかのように。


目をつぶって、自分の根底にある、この感情の理由を探ってみた。


探って探って、じっと考えてみると、新人時代の記憶が蘇ってきた。

あの、人を詰めまくる管理職の人の顔が思い浮かんだ。
とにかく会議を入れまくって、レビューの名のもとに、モノではなく人間を否定する。
資料を作らせて、作るたびに体裁とか、中身に関係ないところで人を馬鹿にして、最悪の雰囲気を作り出す管理職の顔。


そのときの嫌な記憶が、自分の中で『SIっぽさ』と密接に結びついている。

だから、『SIっぽい』連続会議や資料を作らせまくる習慣について、言い知れぬ嫌悪感を覚えるんだ、と理解した。
そして、資料や会議と『SIっぽさ』を結びつけているのは、はてなやその他のブログなどでよく見る「SIディス」の影響なのだろう。

こうやって自分の怒りの源泉を考えたときに、ふっと思い浮かんだのがイケダハヤトさんの顔だ。
彼は、社会に対して、怒っていたんじゃないかと。

自分を認めない理不尽な社会に。
自分を評価しなかった会社に。
トライバルメディアハウスに。

俺がSIっぽさに嫌悪感を抱いてしまうように、イケダさんは会社っぽさに嫌悪感を抱いてしまっているんじゃないだろうか。

偏見のフィルターを取り除きたい

帰り際に、後輩が作った資料を見せてもらった。
最初は「こんなの作らせて何の意味があるんだ」と思っていた資料だ。

出来上がった資料を見てみると、後からプロジェクトに入った人の助けになる、とても有用な資料だった。
否定するべきは資料を作る行為ではなく、偏見を持って見てしまった自分のフィルターだったのかもしれない。


偏見の目を通して見える景色は、いびつに歪んでいる。
見えるもの全てが嫌なものに見えるし、全てを否定したくなってしまう。
たとえそれが有用なものであろうとも。

もちろん、何かを盲目的に信じて、改善を考えないのは良くない。
でもそれ以上に、何かに対していつも斜めに見て、無意識に否定の目で見てしまうのはもっと良くない。

そういう偏見のフィルターは厄介なことに、無意識のうちに作られて、なかなか気付くことができない。
イケダハヤトと聞くと、なんでも否定したくなるはてな民のように。

大学の恩師は言った。

「偏見を持たない人間はいない。だからこそ、偏見を"意識する"ということが大事なんです」

そんな教えを、すっかり忘れてしまっていた。

これからは、自分が何に対して偏見を持っているのか、もう少し丁寧に考えてみたい。

「偏見を持っている」ことを意識するだけで、モノの見え方が変わったから。